Despacito — ガメ・オベールの日本語練習帳_大庭亀夫の休日ver.5

夢のなかでは、まだ古い丸ビルが残っていて、丸ノ内の駅前でタクシーを待っているぼくのまわりを薄い灰色の影のようなサラリーマンたちが歩いている。 1999年に取り壊されたはずの丸ビルがあるのならば、日本にいた時期から考えて、まだ子供のはずで、ひとりでタクシーを待っているわけはないが、夢は夢で、きっと、この丸ノ内は、おとなになってからもういっかいやってきたら、こんなふうにやってみたいと考えた、夢のなかの丸ノ内であるのに違いない。 行列の前のひとが、唐突に振り返って、きみ、知っていますか? このサラリーマンたちの半分は、実はもう死んでいる人達で、自分達が死んだことにも気付かずに、こうやって毎朝、出勤してくるのですよ。 ほら、あの鼻の下にチョビ髭を生やした丸眼鏡の男は、ずいぶん旧式な三つ揃いを着て、随分太い傘をもって、ご丁寧に帽子まで被っているでしょう? ぼくは、あの男をたまたま知っていて、清瀬で結核で死んだのは、戦争前のことだった、ぼくは…. と言いかけて、急に霧のなかへ溶け込むように消えてしまった。 ああ、このひとも、もう死んだ人だったのか、と当たり前のように思って、日本はヘンな国だなあ、と考える。 日本? 日本は関係がないんじゃない? ぼくの一生のすべてのスタートは、ビクトリア公園の、低い丘の上に立って、霧雨のなかで、タシットを見下ろしていた、あの午後にある。 人間は死ぬのだから、十分に生きなければいけない。 競走のように歩くのをやめて、自分にはどんな歩幅が最適で、どのくらいのスピードで歩くのが最も快適なのか、見いださなければならない。 歳をとった人間が忘れてしまっていることは、若い人間のまわりにも死んでゆく人はたくさんいて、若者は、十分すぎるほど死について考える。 死について考えることは、生きることについて考えることで、産まれてから、だんだん人になって、まだ子供は子供だが、ほんとうに人らしくなるのが15歳くらいだとして、それから、多分、70歳くらいまでは、ただ寿命があるだけではなくて、人間として考えられる確率が高いだろう。 もちろん例外はあって、例を挙げればラッセル卿のような人もいるが、早くから人間である実質を失う例は遙かに多くあって、若年のうちから痴呆症になる人もいるし、器質的な病でなくても、例えば強姦にあって、魂そのものが死んで、死んでしまった魂が、ただ苦悶しながら、肉体をもてあましているようなこともある。 あるいは、他人、例えば母親が生きたかった人生を歩いてしまう人もいて、ひたすら勉強して、医師になって、それが如何に自分の魂にとって、寸法があわない職業であっても、ただ世間が口を揃えて褒めそやしてくれることだけを生きる縁(よすが)に、自分は正しい一生を送ってきたのだと、自分自身に対して、虚しい説得を続けることで生きてゆくひともいる。 カウチに寝転がって、自分の足を眺めていると、なんだか他人の足のようで落ち着きがなくなった経験は、誰にもあるに違いない。 肉体は、必ずしも、きみ自身であることを意味しないのは、しばらく鏡をのぞかない生活をしていて、何ヶ月も経って、ふと自分の顔を鏡のなかにみると、他人が立っているようにみえることでも判る。 ぼくの場合は、ときどきやってみる無暗矢鱈に日本語を書いてみたりする時期がそうで、日本語を、狂った人のように書きなぐって、日本語で世界が構成されたようなときに、ふと鏡をみると、そこには異形の人が立っていて、ぎょっとすることがある。 また違う夢のなかでは、ぼくはトランピングの途中で、タスマントレイルを数日歩き続けて、疲れて、ネルソンの町に降りて、土手に背中を預けて、ステーキパイを食べている。 土手の上の道を、数人の人が歩いて来て、そのうちにひとりの声が、自分が子供のときに死んだ曾祖父で、あの最後に息を引き取るまで快活だった声で、 「人間の一生なんて、たいしたことはないのに、まったくご苦労なことだ」と述べている。 ああ、これは本当に曾祖父だ。 この人は、これが持論なんだ。 なつかしいなあ、でもどうして死から蘇って、こんなところにいるのだろう? 夢のなかの現実の排列はデタラメに見えるが、実は法則がある。 覚醒の生活のなかで、最も夢の現実に似ているのは本棚だろう。 この棚は外国語で、フランス語の古典はここがいいだろう。 こっちは宗教の関係にしてみようか? でも、そのときには、フランス語の宗教の本はどこにいれれば、うまく収まるのだろう。 夢は、あるいは夢のなかの現実の排列は、どこまでも永遠に本を並べ替える作業に似ていて、考えていると、人間はみんな、自分の過去と思惟についての司書にしか過ぎないのではないかと思えてくる。 では覚醒した現実はどうかというと、夢や死と、それほど変わらないような気がする。 覚醒した現実を保証しているのは大脳による認識だが、認識がほんとうに自我の主体によって行われているかどうかには、常に、よく知られた、おおきな疑問がある。 自我は、自分が選択したふりをしているだけで、意識を欺すことによって、支配者を気取っているだけなのではないか? たとえば思考ということを例にとれば、ほんとうに考えているのは与えられた言語の、いわば歴史性による自立運動であって、意識はそれを追認しているだけなのではないか。 だが肉体の感覚は、リアルである。 よく知られているように、視覚も聴覚もあざむくことは簡単で、世界の上下などは、被験者にVRデバイスを被せて、そのまま一週間も生活させれば、簡単に上と下は逆転する。 でも重力は?と問う人は事情に通じない人で、飛行機を操縦する人ならば、自分が見ているのは水平線だとして、空はほんとうに水平線の上にあるほうの領域なのか、ほんとうは自分は飛行機を裏返しにして飛ばしていて、海を空と錯覚しているのではないか、と混乱した経験を持つ人はざらにいる。 実際、航空機事故の理由のひとつになっている。 そうやって感覚の真実性そのものは、あてにはならないが、感覚のリアルはこの上もなく確かで、神が人間をうらやむ理由があるとすれば、神には感覚受容器が網羅された肉体がないことであるのは、簡単に想像がつく。 性の興奮や、愛する人の髪に触れるときめきや、肌と肌をあわせる恍惚を、神は持ちえない。 人間の肉体という、滅びやすい受容器を持たないからです。 30余年を生きてきたが、なんだか、ときどき退嬰的な気持ちになると、およそ人間が自分の一生に期待するようなことは、すべてやってしまった気持ちになる。 それはきみの想像力が足りないからだよ、という父親の声がすぐに聞こえてくるが、人間の一生には、ほんとうにやってみる価値などあるのだろうか? ほんとうは、ただ肉体という受容器で、つかのま、この世界を感覚するために戻ってきているだけのことなのではないか。 いつもの疑問が、また夢のなかにさえやってきて、夢のなかの不眠をつくりだしている。 それとも、覚醒の生活と認識している時間のほうが、実は夢と定義しうる時間で、夢は覚醒した時間が把握できない秩序の時間が意識の流れになっている現実なのだろうか。 笑うかもしれないが、それがぼくの頭を占めるおおきな疑問で、つまり、大雑把に述べてしまえば、「自分はたしかに存在しているのか?」という疑問であって、同時に、きっと自分が死を迎えるまで、答えることが出来ない疑問なのではないかとおもっています。 それで、一向にかまわない、という気持ちはあるのだけれど

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